おせち料理が特別なものであるというのは、昔から変わりませんが、あまり好きではないのも、昔から変わりません。
子どもの頃、母や祖母がたくさんの食材を調理し、数日間、同じものを食べることに違和感を持ちました。
いくら寒い時期だからといっても、作りおきの料理の衛生面が気になります。
おせち料理が一段落すると、七草粥を食べますが、おせち料理で贅沢をしたから、胃を休める意味で、おかゆを食べるそうです。
おかゆって!?
病人でもないし、贅沢した覚えはありませんが?
でも、うまいのです。
おかゆが。
高校生くらいまでは、この流れが定番で、毎年、辟易していました。
しかし、いい大人になってみると、変化も出てきました。
親戚一堂が集まって、わいわい言いながら、おせち料理をつつくのは、今、思えば、幸せだった気がします。
なかなか会えない親戚と、新年の挨拶を交わしながら、毎年、同じものを食べ、同じような会話をする。
それは、今年も無事に皆で新年を迎えられた。
変わらない事を確認出来ることが、いかに幸せなことか。
祖父母や親戚も、亡くなったり、老いていく中で、20世紀後半のお正月の風景は、時代の変化も伴って、大きく変わったような気がします。
おせち料理を食べなくても、お店が開いているので、もっと食べたいものが食べられる。
おせち料理を自宅で作るのが面倒なので、通販やお店で買う。
それが悪い訳ではなく、ニーズに合っていたから、一般的になったのでしょうし、食べるものの選択肢が多いのは、特に子どもには歓迎される流れでしょう。
便利になりすぎたとは言うものの、それはそれで良いと思います。
私も、お年玉を貰う立場から、あげる立場になりましたが、バブルの恩恵を受けていた頃に、幼少期を過ごしたので、
(これだけしかあげられなくて悪いな。)
と思いながらお年玉をあげます。
子どもは意外としたたかなので、後で、他の親族と比較して、
(チッ。しけてやがる。)
と思うでしょう。
自分がそうだったように。
便利になった世の中なのに、自分が子どもから大人になるほどの時間が経ったのに、お年玉の金額がさほど変わらないのは、それだけ不況の影響が強かったのでしょう。
変わったもの変わらないもの。
今は、おせち料理を囲んだ和やかな空間が、日本から無くならないでいてほしいと切に思います。
ただの料理ではなく、文化と思い出を残すものという考え方をすれば、おせち料理が大切なものだと思えるのです。